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2008-08-14

城郭



僕は移動距離とアイデアは比例するといつも言っている。アイデ
アに詰まったら、遠くに旅に出ればいままで体験したことがない
ことを得て、いいアイデアが出ることが多い。
ヤバいぜっ!デジタル日本 より

週刊アスキーを見て、読まなければと思っていたがやっと読んだ。
とりあえず浮かんだアイデアは、カメラ用のバックを買おうという
こと。
久しぶりの「城跡」ラベル

2007-05-20

滝の城跡




























































所在地 所沢市城五三七ほか

滝の城は、狭山丘陵の一角が低地に向かって落ちる急な
崖を利用し、東南方を流れる柳瀬川を防御線とした平山
城で、その敷地は約六万六千平方メートルである。

現在でも本丸を中心とした遺構が良く保存されている。
本丸は柳瀬川を眼下に見下ろす城の東南部に位置し、現
在の社殿は櫓台跡の上にある。本丸の北西には、空堀を
へだてて二の郭的な曲輪があり、城はこの方向にいくつ
かの曲輪を配したようで、部分的に遺構が残存している。
また、大手は、さらに北方に所在していたとみられている。

この滝の城は、北条氏照の持城と考えられ、滝山城(永
禄十三年の戦いの後、八王子上に移る)の支城といわれ
ている。

永禄七年(一五六四)の北条氏の清戸番衆交代命令状を
見ても、清戸下宿に番所があって固めてあり、城の防備
と密接な関係があったと推定される。

天正十八年(一五九〇)、豊臣秀吉の小田原城攻略の際、
落城したものと考えられている。
大正一四年三月三一日付けで埼玉県指定史跡となってい
る。


昭和六十年三月
埼玉県
所沢市

2007-05-13

二重橋










































江戸城跡、皇居
二重橋と伏見櫓

2007-05-12

岩槻城






































































岩槻城

岩槻城は室町時代末に築かれた城郭です。
築城者については太田道灌とする説、父の太田道真とす
る説、そして後に忍(現行田市)城主となる成田氏する
説など様々です。

16世紀の前半には太田市が城主となっていましたが、永
禄10年(1567)三船山合戦(現千葉県富津市)で太田氏
資が戦死すると小田原城の北条氏が直接支配するところ
なりました。

北条氏は、天下統一を目指して関東への進出を図ってい
た豊臣秀吉と対立。やがて天正18年(1590)5月20日か
らの豊臣方の総攻撃を受けた岩槻城は2日後の22日に落
城してしまいました。同年、豊臣秀吉が北条氏を滅ぼす
と徳川家康が江戸に入り、岩槻城も徳川の家臣高力清長
が城主となりました。

江戸時代になると岩槻城は江戸北方の守りの要として重
要視され、幕府要職の譜代大名の居城となりました。

室町時代から江戸時代まで続いた岩槻城でしたが、明治
維新後に廃城となりました。城の建物は各地に移され土
地は払い下げられて、およそ400年の長きにわたって続
いた岩槻城は終焉の時を迎えました。

岩槻市

2007-05-03

忍城










































忍城の由来
忍城は文明十年(一四七八)頃 成田顕泰に
より築城された「守りやすく攻めにくい」難攻
不落の名城であったと伝えられている

天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉の関東平定の
中で戦われた石田光成による忍城水攻めにも
耐えこの城は水に浮くかと恐れられ
「忍の浮城」とも称されたという

寛永一六年(一六三九)時の老中 阿部忠秋が
入場し忍城大改築に着手 孫の正武の代に
いたり忍城御三階櫓の建設城門土塀の修築
などが完成し面目を一新したという

文政六年(一八二三)伊勢の桑名から松平忠尭(ただちか)が
移封し忠誠のとき明治維新を迎えた

市では維新後取り壊されていた城下の面影
を再建し永く後世に伝えることになった

平成三年三月
行田市

2007-04-29

葛西城跡


東京都指定史跡
所在地 葛飾区青戸七丁目二一番外
指定  平成十年三月十三日

葛西城は、中川の沖積微高地上に築かれた平城である。
沖積地に存在しているため、地表で確認できる遺構は認められない。

築造者と築造の年代については不明であるが、天文七年(一五三八)
二月には、北条氏綱によって葛西城が落城されたという記録(快元僧都記)
があり、この後、葛西城は後北条氏の一支城となり、幾多の争乱の舞台となった。

後北条氏の滅亡後、葛西城は徳川氏の支配下にはいり、葛西城の跡は、
将軍の鷹狩りの際の休憩・宿舎(青戸御殿)として利用されていた。

東京都教育委員会より抜粋

2007-04-22

松山城跡



















本丸


















二の丸


















春日丸



































東松山
松山城

2007-04-21

石神井城跡




















































石神井城は、中世武士の豊島氏の城です。

豊島氏は、葛西、江戸両氏とともに、
秩父流平氏で、鎌倉時代の末には、
石神井郷を領有していました。

室町時代に、城主の豊島泰経は、
武蔵守護の上杉顕定にそむいた長尾景春
に味方しました。そのために顕定を援助
していた江戸城主の上杉定正の重臣の
太田道灌は、文明九年(一四七七)四月、
この城に泰経を攻めて、これを落としました。

石神井城は、中世の平城の一つで、
三宝寺池の谷と石神井川の低地とに挟まれた
小高い丘陵の上にあって、その周囲は空堀や
土囲でめぐらされていました。

今でも空堀のあとの一部を見ること
ができますが、落城によって照姫が水中に
身を投げたという伝説など数々の
哀れな物語を秘めています。

練馬区教育委員会
(看板より抜粋)

2007-04-15

鉢形城跡































































鉢形城

鉢形城は、文明8年(1476年)に長尾景春が築いたと言われています。
背面は高い崖の下に荒川を臨み、前面には深沢川の深谷をひかえ、台地には
本丸等の主要部を構え、深沢川の対岸には帯状に外曲輪があります。
天然の要害を巧みに利用した城であって、このような地形は、高い山城と並ん
でよく城に利用されています。

いま、本丸、二の丸、三の丸、大手、搦手逸見曲輪等
を区画するように土塁や堀が良く残っています。
このため昭和7年国の史跡として指定を受けています。

その後、山内上杉氏の持城となり、永禄初年(1558年)
になって、当地一帯を治める藤田康邦は、小田原を
本拠地として、関東一円に進出してきた後北条家の
氏邦を女婿として迎えました。

北条氏邦は入城にあたり鉢形城の大改修を行って、関東
屈指の平山城になったようです。
寄居町・埼玉県
(看板より抜粋)