2007-04-29

葛西城跡


東京都指定史跡
所在地 葛飾区青戸七丁目二一番外
指定  平成十年三月十三日

葛西城は、中川の沖積微高地上に築かれた平城である。
沖積地に存在しているため、地表で確認できる遺構は認められない。

築造者と築造の年代については不明であるが、天文七年(一五三八)
二月には、北条氏綱によって葛西城が落城されたという記録(快元僧都記)
があり、この後、葛西城は後北条氏の一支城となり、幾多の争乱の舞台となった。

後北条氏の滅亡後、葛西城は徳川氏の支配下にはいり、葛西城の跡は、
将軍の鷹狩りの際の休憩・宿舎(青戸御殿)として利用されていた。

東京都教育委員会より抜粋

2007-04-22

松山城跡



















本丸


















二の丸


















春日丸



































東松山
松山城

土蜘蛛人が住んでいたと言う説












































埼玉県 吉見町
吉見百穴(よしみひゃくあな)

岩室観音と石仏




















































投票の後に訪問

2007-04-21

石神井城跡




















































石神井城は、中世武士の豊島氏の城です。

豊島氏は、葛西、江戸両氏とともに、
秩父流平氏で、鎌倉時代の末には、
石神井郷を領有していました。

室町時代に、城主の豊島泰経は、
武蔵守護の上杉顕定にそむいた長尾景春
に味方しました。そのために顕定を援助
していた江戸城主の上杉定正の重臣の
太田道灌は、文明九年(一四七七)四月、
この城に泰経を攻めて、これを落としました。

石神井城は、中世の平城の一つで、
三宝寺池の谷と石神井川の低地とに挟まれた
小高い丘陵の上にあって、その周囲は空堀や
土囲でめぐらされていました。

今でも空堀のあとの一部を見ること
ができますが、落城によって照姫が水中に
身を投げたという伝説など数々の
哀れな物語を秘めています。

練馬区教育委員会
(看板より抜粋)

2007-04-15

鉢形城跡































































鉢形城

鉢形城は、文明8年(1476年)に長尾景春が築いたと言われています。
背面は高い崖の下に荒川を臨み、前面には深沢川の深谷をひかえ、台地には
本丸等の主要部を構え、深沢川の対岸には帯状に外曲輪があります。
天然の要害を巧みに利用した城であって、このような地形は、高い山城と並ん
でよく城に利用されています。

いま、本丸、二の丸、三の丸、大手、搦手逸見曲輪等
を区画するように土塁や堀が良く残っています。
このため昭和7年国の史跡として指定を受けています。

その後、山内上杉氏の持城となり、永禄初年(1558年)
になって、当地一帯を治める藤田康邦は、小田原を
本拠地として、関東一円に進出してきた後北条家の
氏邦を女婿として迎えました。

北条氏邦は入城にあたり鉢形城の大改修を行って、関東
屈指の平山城になったようです。
寄居町・埼玉県
(看板より抜粋)