2007-05-20

滝の城跡




























































所在地 所沢市城五三七ほか

滝の城は、狭山丘陵の一角が低地に向かって落ちる急な
崖を利用し、東南方を流れる柳瀬川を防御線とした平山
城で、その敷地は約六万六千平方メートルである。

現在でも本丸を中心とした遺構が良く保存されている。
本丸は柳瀬川を眼下に見下ろす城の東南部に位置し、現
在の社殿は櫓台跡の上にある。本丸の北西には、空堀を
へだてて二の郭的な曲輪があり、城はこの方向にいくつ
かの曲輪を配したようで、部分的に遺構が残存している。
また、大手は、さらに北方に所在していたとみられている。

この滝の城は、北条氏照の持城と考えられ、滝山城(永
禄十三年の戦いの後、八王子上に移る)の支城といわれ
ている。

永禄七年(一五六四)の北条氏の清戸番衆交代命令状を
見ても、清戸下宿に番所があって固めてあり、城の防備
と密接な関係があったと推定される。

天正十八年(一五九〇)、豊臣秀吉の小田原城攻略の際、
落城したものと考えられている。
大正一四年三月三一日付けで埼玉県指定史跡となってい
る。


昭和六十年三月
埼玉県
所沢市

桃太郎

























桃太郎 EF210

2007-05-12

岩槻城






































































岩槻城

岩槻城は室町時代末に築かれた城郭です。
築城者については太田道灌とする説、父の太田道真とす
る説、そして後に忍(現行田市)城主となる成田氏する
説など様々です。

16世紀の前半には太田市が城主となっていましたが、永
禄10年(1567)三船山合戦(現千葉県富津市)で太田氏
資が戦死すると小田原城の北条氏が直接支配するところ
なりました。

北条氏は、天下統一を目指して関東への進出を図ってい
た豊臣秀吉と対立。やがて天正18年(1590)5月20日か
らの豊臣方の総攻撃を受けた岩槻城は2日後の22日に落
城してしまいました。同年、豊臣秀吉が北条氏を滅ぼす
と徳川家康が江戸に入り、岩槻城も徳川の家臣高力清長
が城主となりました。

江戸時代になると岩槻城は江戸北方の守りの要として重
要視され、幕府要職の譜代大名の居城となりました。

室町時代から江戸時代まで続いた岩槻城でしたが、明治
維新後に廃城となりました。城の建物は各地に移され土
地は払い下げられて、およそ400年の長きにわたって続
いた岩槻城は終焉の時を迎えました。

岩槻市

2007-05-05

2007-05-04

2007-05-03

さきたま緑道(全長4.5km)










































さきたま古墳公園側から北鴻巣まで

さきたま古墳




















水城公園





























C57 26




















忍城










































忍城の由来
忍城は文明十年(一四七八)頃 成田顕泰に
より築城された「守りやすく攻めにくい」難攻
不落の名城であったと伝えられている

天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉の関東平定の
中で戦われた石田光成による忍城水攻めにも
耐えこの城は水に浮くかと恐れられ
「忍の浮城」とも称されたという

寛永一六年(一六三九)時の老中 阿部忠秋が
入場し忍城大改築に着手 孫の正武の代に
いたり忍城御三階櫓の建設城門土塀の修築
などが完成し面目を一新したという

文政六年(一八二三)伊勢の桑名から松平忠尭(ただちか)が
移封し忠誠のとき明治維新を迎えた

市では維新後取り壊されていた城下の面影
を再建し永く後世に伝えることになった

平成三年三月
行田市