2006-07-30

赤塚城跡



























武蔵千葉氏と赤塚城跡

下総国の守護千葉市は、古河公方足利成氏と関東管領
上杉家とが戦った享徳の大乱に巻き込まれ、一族で骨肉
相食む争いを繰り広げました。康正二年(一四五六)成氏
方の軍勢に攻められた千葉実胤・自胤(これたね)兄弟は、
上杉家の助けをうけ、市川城を逃れて赤塚城と石浜城(
現台東区)へ入城しました。

寛正四年(一四六八)に兄の後を継いだ自胤は、太
田道灌に従って各地を転戦、現在の和光市や大宮市、
足立区内に所領を獲得するなど、武蔵千葉氏の基盤を
築きました。

その後、武蔵千葉氏は、南北朝以来の領主であった
京都鹿王院の支配を排除するなど赤塚の支配の強化に
努め、北条氏が武蔵国へ進出してくるとこれに従い、
豊臣秀吉に滅ぼされる天正十八年(一五九〇)まで勢
力をふるいました。

城は荒川低地に面し、東と西に大きく入り組んだ谷に
挟まれた台地上にあります。その縄張りは、地形の
観察等から都立公園の広場の部分が一の郭、梅林の
部分が二の郭、そしてその西側が三の郭とする見解も
ありますが、正確にはことはまだあきらとなっていません。

平成十三年三月
板橋区教育委員会

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