「テキスト軽視のデジカメ野郎の日々」。あるいは「自己研鑽と自己実現の場」。もしくは「意味不明な戯言集」。 ともすれば、ただの「画像置場」。最近のメインカメラはGR DIGITAL III。
2006-12-10
2006-11-05
2006-11-04
2006-11-03
2006-10-29
2006-10-22
2006-10-21
2006-10-09
2006-10-08
2006-10-07
2006-09-24
2006-09-16
2006-08-20
2006-08-19
2006-08-15
世田谷城跡
世田谷城跡 都指定旧跡 世田谷城は武蔵野台地の一角、
南東に張り出した舌状 台地の先端部に立地し、西・南・東
の三面に烏山川が蛇 行し、北には小支谷が入る。
十四世紀後半に吉良治家が居住したのに始まると伝える。
吉良氏は清和源氏・足利氏の氏族で、世田谷吉良氏は
その庶流にあたる。はじめ鎌倉公方に仕え、十五世紀後
半に関東が乱れると関東管領・上杉氏やその家宰・太田
道灌に与力し、十六世紀には北条氏と結んだ。
北条氏とと上杉氏との勢力争いで、享禄三年(一五三〇)
には世田谷城は攻略されたと伝えるが、のち吉良氏の手
に復した。
この間、吉良氏は北条氏と婚姻関係を結び、その庇護下
にあったが、天正一八年(一五九〇)、豊臣氏の小田原攻
略により、世田谷城も廃城となった。
世田谷城の濠・土塁の構造は天文六年(一五三七)の
再築とされる深大寺城のそれと類似しており、十六世紀
前半に防御の為、大改築がなされたことが窺える。
平成十四年十一月
世田谷区教育委員会
(看板より抜粋)
2006-08-14
2006-08-05
2006-07-30
赤塚城跡
下総国の守護千葉市は、古河公方足利成氏と関東管領
上杉家とが戦った享徳の大乱に巻き込まれ、一族で骨肉
相食む争いを繰り広げました。康正二年(一四五六)成氏
方の軍勢に攻められた千葉実胤・自胤(これたね)兄弟は、
上杉家の助けをうけ、市川城を逃れて赤塚城と石浜城(
現台東区)へ入城しました。
寛正四年(一四六八)に兄の後を継いだ自胤は、太
寛正四年(一四六八)に兄の後を継いだ自胤は、太
田道灌に従って各地を転戦、現在の和光市や大宮市、
足立区内に所領を獲得するなど、武蔵千葉氏の基盤を
築きました。
その後、武蔵千葉氏は、南北朝以来の領主であった
京都鹿王院の支配を排除するなど赤塚の支配の強化に
努め、北条氏が武蔵国へ進出してくるとこれに従い、
その後、武蔵千葉氏は、南北朝以来の領主であった
京都鹿王院の支配を排除するなど赤塚の支配の強化に
努め、北条氏が武蔵国へ進出してくるとこれに従い、
豊臣秀吉に滅ぼされる天正十八年(一五九〇)まで勢
力をふるいました。
城は荒川低地に面し、東と西に大きく入り組んだ谷に
城は荒川低地に面し、東と西に大きく入り組んだ谷に
挟まれた台地上にあります。その縄張りは、地形の
観察等から都立公園の広場の部分が一の郭、梅林の
部分が二の郭、そしてその西側が三の郭とする見解も
ありますが、正確にはことはまだあきらとなっていません。
平成十三年三月
観察等から都立公園の広場の部分が一の郭、梅林の
部分が二の郭、そしてその西側が三の郭とする見解も
ありますが、正確にはことはまだあきらとなっていません。
平成十三年三月
板橋区教育委員会
志村城跡
志村城は、健正二(一四五六)年に千葉自胤(よりたね)が赤
塚城に入城した際、一族の千葉隠岐守信胤が入場
して、赤塚城の前衛拠点とした。
本丸は志村小学校を中心とする一帯の丘陵地で、
本丸は志村小学校を中心とする一帯の丘陵地で、
出井川と荒川をめぐらせ、”守るに易く攻めるに難し”
といわれる堅城であったが、大永四(一五二四)年に
北条氏綱に攻められて落城した。
熊野神社は志村城二ノ丸にあたり、社殿は古墳上
北条氏綱に攻められて落城した。
熊野神社は志村城二ノ丸にあたり、社殿は古墳上
に建てられている。長久三(一〇四二)年、志村将監が
紀州から勧請したと伝えられており、千葉自胤が志村城
の守護神と定めた。
の守護神と定めた。
現在の社殿は昭和三十二年に改築されたものである。
社殿の西側には今でも空濠の跡を見ることができる。
平成五年二月
平成五年二月
板橋区教育委員会
(看板より抜粋)
(看板より抜粋)
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